空手を代表する型である三戦。「三戦に始まり三戦に終わる」と言われるほど重要な型である。メディアや漫画などの影響もあり、その名称や三戦構えなどは空手修行者以外にも広く知られている。
しかし、そのコンセプトややり方は流会派によって様々であり、ルーツに関しては現代の空手修行者にさえ認知度の割にあまり知られていない。ここでは三戦の源流やその変遷について、今までメディアで触れられることがなかった点も含めて紹介や考察を行いたい。
三戦を有する流派
三戦がある流派としては剛柔流や上地流が特に有名だが、基本的に那覇系(敢えて那覇手とは書かない)の流れを汲む流派にはほぼ存在する。剛柔流開祖の宮城長順と共に東恩納寛量の下で学んだ摩文仁賢和の糸東流にもあるし、極真カラテを興した大山倍達が剛柔流を学んでいたため、フルコン系流派にも存在している。また、メジャーにはならなかったが、昔は首里系でも練習していた形跡がある。
中国武術の三戦に対する誤解
今ほど情報の無かった時代では、「空手の三戦は握拳だが、中国武術の三戦は上地流のように開手で行うと」語られていたこともある。
だが、この言い方だと、まるで中国武術に三戦というものが一種類しかないような印象になってしまう。余談だが、剛柔流の源流をある団体が勝手に鳴鶴拳と決めてしまったときの理由の一つに「鳴鶴拳は三戦重視の拳法だから」というのがある。しかし、三戦は福建系の南派拳術には門派を問わず多く存在している。
様々な三戦
上記で述べたように福建系の南派拳術は基本套路(型)・母拳として多くの門派が三戦を有している。握拳が中心のものもあれば開手のものあり、立ち方・呼吸・構成も様々である。
表記も三戦以外に三迸(進)・三展・三正・三歩箭などがあり、発音の類似性がある部分の他、それぞれに意義がある。
台湾の台中市で南少林蔡家拳を教授している呂松吉老師によれば元々は三歩勁と表記していたとのことである。これだと南派の周家蟷螂拳の三歩箭が語感的には近い。
三戦の意義
同じく呂松吉老師によれば、三戦は鍛えるという意味を表すという。
呂松吉老師の解説は下記のようになる。
煉心志:意念、耐力
心を鍛える:意念、忍耐力
煉勁:呑吐、運勁
気を鍛える:呼吸、発勁
煉拳架:腰馬、手勢
拳の勢いを鍛える:馬歩、手の動き
また、台北で古い系統の白鶴拳(潘嶼八系)を指導しておられた董木尭老師は「三戦とは三歩進んで三歩退くことです。」と武術誌の取材班の質問に答えている。記事を要約すると、三戦とは足の功力を高める訓練で、三戦という套路は(自分のところには)ないが、三戦は套駱の中に含まれるという事である。
いろいろな話を統合すると、三戦は型というよりは、短い距離を往復する中で功力を練るといったニュアンスになると思う。 一応形式としては三歩だが、三は不定の複数を表す意味もあるらしく、練功においてはそこまで拘らずともよさそうである(元々東恩納寛量の三戦も型のようなものではなく、真っ直ぐ行って適当なところで反転して同じく戻ってくるもので、型として整えたのは宮城長順だという話もある)。
中国武術内での三戦の変化
三戦はいつの時代にその呼び名や原型ができたのかは不明であるが、鶴拳系の三戦の原型は福建省の永春地方で発祥した永春白鶴拳の三戦である。永春白鶴拳は300年程の歴史を持ち、広東系を除くほぼ全ての鶴拳の源流となった。永春白鶴拳が福州に伝えられ、現地の拳術と合わさり食・宿・鳴・宿・縱などの福州鶴拳が生まれた。
三戦自体はその永春白鶴拳の成立以前から存在していたと考えられるが、鶴拳系では一番古い永春白鶴拳の三戦も時代や地域によって変化している。道光年間までは三戦単馬法・単技単馬法・双技単馬法などの記述があるが、光緒年間に改革があり、現在の福建省永春県の武館では三戦は七歩三戦という名称になっている(但し、璋州から香港へ伝わった系統では違うようである。)
以下、主だった三戦(三戦以外の名称の同系統の套路も含む)のリンクを貼るので確かめていただきたい。
次回後編では空手に伝わった三戦がどのように変化していったのかを考察する。
