空手の中の白鶴拳 その三「八歩連(パープーレン)」後編

型の考察

前編https://bunka-bujutsu.com/papuren1/で指摘したように、糸東流に元々伝わった呉賢貴からの八歩連[パープーレン]とは全く関係がない同名の型が2010年頃に糸東会にパープーレンとして導入され、それに対するカウンターのように元々伝わっていたものに近いパープーレンも同時期に急遽導入された。

この元々伝わっていたものに近いパープーレンはできる人が糸東会にはほぼおらず、失伝に近いような状態だったが、この時期に講習会でも教授され拳譜(谷長次郎の型を辻川禎親師範が記録したもの)のコピーも出回ったので、現在はそれなりに知っている人も増えていると思う。

ただ、この型にしても鳴鶴拳のパープーレンとはかなりの違いがある。ハッファの考察で指摘したこととも絡むが、なぜ内容に大きな変化が起こり、しかも広まることなく失伝しかけていたのかを八歩連[パープーレン](以下、福州鶴拳の伝承に従い八歩連とのみ記述)の解説と共に考察していく。

福建省の鳴鶴拳の八歩連

基本にして最重要の型

そもそも八歩連とは?

八歩連は福州鶴拳(主に潘嶼八系)の言い方・型(中国武術では套路)であり、源流である永春白鶴拳には無い。永春白鶴拳にあるのは三戦と四門。この三戦と四門は永春白鶴拳に限らず多くの福建拳術にある。三戦は空手家にも馴染みがある名前だが四門は聞き慣れない方も多いと思う。四門とは簡単に言えば斜めの概念である。

伝承にもよるが鳴鶴拳の八歩連では最初の3歩の動作までが三戦で以降の動作からは四門となる。つまり三戦と四門の連続であるが、通常はこれらを分けずに八歩連という一つの型としている(ただ、八歩連の他に三戦という型が別にある系統もあり、この辺りは非常にややこしい。だが、永春白鶴拳に八歩連という型や言い方が無いのは間違いない)。

八歩連で学ぶもの

八歩連は呼吸・姿勢・力の入れ抜き、内力を作る非常に重要な型であり、本来型としては一番最初に学ぶ。では何故そのような重要な型を呉賢貴から許田重発は学ばず、摩文仁賢和は学んだものの熱心に残そうとしなかったのか?私はその理由を習得の必要性を感じなかったからだと考える。空手には空手の三戦があるからである。

空手との親和性

門派における基本型・母拳とはその門派に適した身体を造る土台となるものである。福建拳術にはそれぞれの門派にそれぞれの三戦があり、名前は同じでも要求される姿勢や呼吸、手型などは異なる(造ろうとしているものが異なるのだから、基礎も異なるのは当たり前である)。同じ福建系の武術の中でも門派によって違うのだから、当然空手の三戦と福州鶴拳の三戦は求められるものはそれ以上に異なる。

許田・摩文仁は那覇系の三戦を主軸とする東恩納の手を学んで十分に習熟し、沖縄唐手研究倶楽部にて空手の普及や後進の育成を考えていた時期である。自身の見識や技術を深めるために呉の拳からプラスになる部分を取り入れようとは考えても、呉の拳を一から学び、鶴拳の体に作り替えるという発想はなかったと想像する(この辺りが永光茶行に呉の鶴拳を学びに来ていた弟子達とは立場や考え方の違うところである)。

この点から考えると両者が呉から二十八歩[ニーパイポ・ネーパイ]の型を習ったのは自然な流れだったと言える。以前の記事https://bunka-bujutsu.com/nipaipo/でも書いたが、二十八歩は空手の源流に影響を与えたと考えられる南派羅漢拳から潘嶼八系の鶴拳に取り入れられた型で、空手と親和性が高い動作が多い。当時はそのような歴史的な変遷は誰も知らなかっただろうが、両者は直感的に自分達に有益なものを見抜いたことになる。
だから呉が使っていた、空手とは趣の全く違う2つの型(八歩連と中框)について許田は習わず、摩文仁は手順は習っても積極的に教えようとはしなかったのではないだろうか。

糸東流や糸東流から分かれた流会派で八歩連やハッファ・白鳥・鶴法などの名前や動作に混同があったり、白鶴拳には存在しない挙動の違う数種類の型が生まれたのは、摩文仁が通常の空手型のようには指導せず、部分的に指導(話したり見せたりしたことも含む)したことに起因していると考える(ブログの一番最初のハッファの記事にもこの辺りのことは書いてあるので、興味のある方は参照いただきたいhttps://bunka-bujutsu.com/haffa/)。

八歩連の改変

現在残っている型や話、及び物的証拠から摩文仁は二十八歩だけでなく八歩連も学んだはずだが、現在の糸東流の八歩連と福州鳴鶴拳の八歩連では演武線は似ているものの違いがかなり大きい。この理由はなぜなのか?

呉の鶴拳の弟子が習った八歩連が現存していないのでハッキリしたことは言えず、ここからは私の完全な想像になるが、これは呉か摩文仁が空手を学ぶ日本人から受け入れられやすいように八歩連の動作を空手に寄せたためだと考える。

一例を挙げると前半の三歩の動作で鳴鶴拳では両手でゆっくり指先を伸ばしていくのに対して、糸東流では片手での掌底突きとなっている。この動作自体は元々は背中を繋げる・含胸抜背の姿勢を作る・意識を足→背中→肘→指先に移していくなどいろいろ意味があるのだが、糸東流のものは空手型の三戦を掌底にアレンジしたような動作であり、そのような意味は語られない。
なお、中国武術の三戦や八歩連は門派によって動作は様々だが、このように片手での掌底を繰り出す門派は現在のところ確認できていない(恐らく存在しない)。
その他、中間部分(派によっては最後の部分)での発力動作も糸東流のものには無く、全体的に意識や身体造りの動作が単に技法としてだけの動作に変わっている印象を受ける。今も昔も日本人は型に対して意識や身体の訓練ということよりも直接攻防の意味を求める傾向があり、そういったことが型の変化に繋がったのではないだろうか。

呉賢貴の弟子

沖縄空手古武道事典の呉賢貴の項目によれば、呉には4人の弟子がいたとされる。一番弟子は安仁屋正昌で、安仁屋の紹介で屋部・目取間・相良の3人(この3名は苗字のみで名前は伝わっていない)が入門したという。
安仁屋は後年貿易商としても活躍し、宮城長順が上海を訪問した際の中国人要人との会談では陰で尽力したとされている。98歳まで生き、生前は多くの武道家の訪問を受けたというが、弟子がいたかどうかは記されておらず、今日にその手は伝わっていないと思われる。

なお、金硬流二代目宗家の又吉眞豊も呉に師事したとされ(1938-1940の間)数種の型を伝えているが、安仁屋の項目のところでは、呉にはこの4人以外に弟子はいなかったように書かれており、実際のところは不明である。ただ、呉は空手家とも複数交流があったし、自宅以外で指導していた可能性もあるので、永光茶行で夜に教えていた弟子が4人だけだったという意味かもしれない。

許田や摩文仁は空手家であり、その研究の一環として呉の武術の一部を取り入れた。又吉眞豊は父である眞光から数々の武術を習ったが呉に師事した年数は2年と短く、父や喜屋武朝徳、その他剛柔流系の空手の影響もある。対して、安仁屋は呉の2つ年下で年齢も近く、師事していた年数も長いうえに空手の影響もないので純然たる呉の武術を習得していたと言っても過言ではない。もし安仁屋に弟子がいて、今日にその技法が伝わっていたらと思うと残念でならない。伝わっていれば呉の正確な門派や系譜も含めてかなりのことがわかっていたはずである。

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