空手の中の白鶴拳 その二「二十八歩(ニーパイポ)」

型の考察

白鶴拳から伝わり、最も有名な空手型の一つとなった誤解多き型

有名な割に来歴は知られていない?

二十八歩は元々糸東流でも一握りの人間(開祖・摩文仁賢和の子息の摩文仁賢榮や賢和の直弟子の梅沢芳雄など)しか知らない型であった。二代目宗家の賢榮が家伝に近い存在だった二十八歩を公開して伝授を始めて以来、主に高段者が練習・演武するようになったが、全日本空手道連盟の第二指定形になって以降は小学生でも練習するようになり、今日最も広く知られている型の一つともなっている。

そんな二十八歩だが、伝承経路がはっきりと分かっているにも関わらず、意外とその正確な来歴は知られていない。少し詳しい人なら糸東流の型の分類表を見て、呉賢貴から伝わった中国武術の型というのは知っているが、歴史に興味がほとんどない人の中には泊手だと勘違いしていたというケースもある。また、空手に伝わる以前から非常に古い歴史を持つ型なのだが、下記のような誤った認識と説をメディアで発表した先生方もいる。

  • 摩文仁賢和が呉賢貴と2人で編み出した
  • 型競技用に糸東流関係者が創作した
  • 現在の競技で使われているニーパイポは普及用の簡略版で、本来の古流ニーパイポというのがある

上記は全て誤りであり、碌に調べもせずに思い込みでメディアで発表された説である。今回の記事ではこれらを改めて払拭する意味でも、この型について細かく記述していく。

南派羅漢拳から白鶴拳へ

この型は元から白鶴拳にあったのではなく、羅漢拳(北派と南派がある。南派の中でも幾つか支流あり)から白鶴拳に取り入れられた。よって他の型に比べて鶴を連想させる技法は少ない。伝承経路を見ていくと、まず福建省の永春地方で生まれた白鶴拳(永春白鶴拳)を林世咸が福州の潘嶼八に伝えた。潘嶼八は元々羅漢拳を修得しており、林から習った永春白鶴拳に羅漢拳が融合して新たな風格の白鶴拳が生まれた(後に福州鶴拳と呼ばれるものの一脈)。潘嶼八の弟子の1人に鳴鶴拳を創始する謝崇祥(1853-1930)がおり、二十八歩は鳴鶴拳の重要な套路(型)のひとつとして受け継がれていった。潘嶼八の詳しい生没年は不明だが、謝崇祥の生没年から考えて、道光(1821-1850)・咸豐(1851-1861)年間の人であることは間違いないなく、その潘嶼八が武術を始める前から二十八歩は存在している。このことからも摩文仁賢和が呉賢貴と編み出したとか、糸東流による競技のための創作はあり得ないということがわかっていただけると思う。
なお、潘嶼八の他の弟子に董章漢という人物がいる。董の鶴拳は子孫により現在は台湾へと伝わっているが、この系統も二十八宿を有している。
※二十八歩、二十八宿、二十八打、二十八肖など、派によって表記は様々だが、この場合の意味は大体同じ(二十八の技法的な意味)で大差はなく同じ型である。また、福州では数字以降の漢字と十の発音は省略され、単に「二八」と呼ぶ場合もあるようで、呉賢貴から許田重発に伝わった東恩流の「ネーパイ」はそういった呼び方からのものである。

白鶴拳から空手へ

呉賢貴は福建省福州の出身で、大正元年に来沖した。呉の師匠と門派をハッキリ断言できる資料はないが、残されてる型と逸話から呉の門派は鳴鶴拳系だと考えて間違いないと思う。呉は自身の店「永光茶行」を経営しながら武術を教えた。また、そこでの弟子とは別に当時の空手家と交流を持ち(摩文仁賢和が設立した沖縄唐手研究倶楽部にも参加している)、複数の人間に型を教授している。二十八歩は前述の許田重発(東恩流)、摩文仁賢和(糸東流)、又吉眞豊(金硬流)へと伝授された。表記や呼び方には微妙な差があり、型の内容もそれぞれの師範の考え方と伝承の過程で変化はしているが、元々は呉の伝えた一つの型である(鳴鶴拳の型には派によって八歩連、中匡、二十八歩、柔箭、七景、柔鶴、花八歩があるが、二十八に該当するものは一つしかない)。

発音について

二十八歩の読み方を福州の発音で聞くと、日本人には二の部分が[ニ]にも[ネ]にも聞こえると思う。また、そういった個人での聞こえ方の違いの他に、呉賢貴が福州の慣習で十の部分を省略して二八や二八歩と言ったりしたため、後年に口頭での伝言ゲーム的変化も加わり最終的にネーパイやニーパイポといったように呼び方と表記が流派や人によって別れる結果なったと考えられる。因みに摩文仁賢和はニッパイポと言っていたと前述の梅沢芳雄は月刊空手道で語っている。

型の流れの比較

糸東流も会派によって細部は違うし、鳴鶴拳も系統によって差異はあるが、大まかな型の流れは両者共に似通っている。前半の斜め前に手を差し出してからの拳槌(或いは手刀)打ち2回、双手突き、右後方斜めから正面に反転して地面に片膝をついての攻撃、後ろ正面で膝を上げての鶴翼の構え、後半における連続の縦四本貫手、回し(あおり)蹴りからの攻撃、最後の反転前の横受けしての中段突きなど、これだけ共通していれば十分だと思う。最初に沖縄に伝わってから100年程の時間が経過しているが、今両者を見比べてもはっきりと鳴鶴拳系からの伝であることがわかる。

古流ニーパイポを名乗る偽りの型の存在

最後に比較的近年に出現した古流ニーパイポを名乗るニーパイという型について触れておきたい。結論から言うとこの型は呉賢貴から沖縄の空手家に伝わった一連の型とは全く関係がない。また、鳴鶴拳や他の鶴拳にも存在しない型である。挙動は一見すると鶴の技法が多いようにも感じるかもしれないが、クルルンファから取り入れたような挙動や、鶴拳には存在しない空手式の手刀受けや掛手もある。誤解を恐れずに言えば、既存のニーパイポに後で付け加えて改変(創作)された印象を受ける(残念なことに空手界では後で付け加えたり改変や創作した型に古流や古式と名を付けているケースが散見されるが、それらと同類ではないかと感じる)。この型はある糸東流の師範が沖縄伝武備志を研究している西洋人から1980年代あたりに学んだということだが、伝承経路のはっきりしている自流の二十八歩(ニーパイポ)に対して、歴史的に沖縄の空手に何の関係も繋がりもなく、来歴もはっきりしないニーパイなる型をニーパイポの古流型と位置付けて発表・指導したことに違和感を禁じ得ない。我々は歴史を学び大切にし、先師の交流や努力を思い込みや私利私欲で踏みにじらないようにしないといけない。

まとめ

二十八歩は南派羅漢拳から潘嶼八系の福州鶴拳に組み込まれ、大正〜昭和初期に福州人の呉賢貴を通じて沖縄の空手家(許田重発、摩文仁賢和、又吉眞豊など)に伝わった古い型。摩文仁賢和の興した糸東流では元々は一部の者しか知らない型だったが、現在は全空連の第二指定型にもなり、多くの人が練習・演武する型となっている。型の大まかな流れは現在でも鳴鶴拳と大同小異。鳴鶴拳では二十八歩、二十八宿、二十八打、二十八肖と派によって様々な表記があるが、手順に違いはあっても伝承上の変化であり全て同じ型を指す。空手でも糸東流、東恩流、金硬流で表記・呼び方に違いはあり、糸東流の中でも違いはあるがこれも伝承上の変化。但し、古流ニーパイポを名乗るニーパイという型は後から1人の糸東流師範が1980年代頃に西洋人から習って取り入れた歴史上全く関係のない型である。

最後に2018年に旧Twitterで私が今回の内容について一連のツイートをした際に、Togetterでフォロワーの方がまとめてくださったものがあるので興味のある方は参考にしていただきたい。https://posfie.com/@mototchen/p/As7VSvc

また、上記リンク内にもあるが鳴鶴拳の二十八歩と糸東流二代目宗家・摩文仁賢榮の二十八歩の動画を見比べていただけれは、風格は違えどもその類似性をご理解いただけると思う。

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